今日は、俺にとって特別な日である。
そんな、特別な日に限って、否、特別な日だったからこその、今の状況。
背中に感じる、無言の圧力。鼻を衝く、焦げた臭い。
――どうしてこうなった。
今や部屋中に満ちているその臭いの発生源は、コンロに置かれっぱなしの鍋。
あの焦げ付きを取るには大分苦労しそうだ。が、俺にそれを責める気はない。
幾ら時間や食材が無駄になったからといって、親切心から生じた結果に文句を言ったら罰が当たる。……ただ、あの時止めていれば、と心の中で後悔するくらいは許してほしい。
後片付けを考えたくなくて目線を落とした先には、おしゃれなガラス板のローテーブル――独り暮らしを始めたときに買い揃えた家具の一つで、お気に入りの品だ。そのテーブルの上には、お湯を注がれたカップ麺と、歪に割られた割り箸。隣に添えられているのはキッチンタイマー……ではなく、砂時計。
ややレトロな雰囲気を醸し出すアナログな時計は、重力に抗うことなく一定の速度で若草色の砂粒を落としていく。ほんの少し前、勢いよくテーブルに叩きつけ――いや、置かれたそれは、間もなくその半分の時間を刻もうとしている。
「……、」
針で刺されているかのような静寂。砂粒の落下音すら聞こえてきそうだ。
その無音に堪えきれず、細心の注意を払いつつ、目線だけ動かして斜め後ろを盗み見る。
視界の隅に、不規則に揺れ動く白を捉える。――脳内に一瞬にして描き出されたのは、手の中の麦茶を飲むこともなく只管ストローに歯型を付けていくアイツの姿。
なんとも分かりやすいヤツである。
苛立ちを隠すことなく物を噛むのは、もはやヤツの癖だ。加えて、此方をじっと睨みつけているのに、視線が合うと目を逸らす――ちょうど、今みたいに。
「なぁ、」
体ごと後ろに向き直って、殊更穏やかに声を掛けてみる。
「……なに」
眼鏡の奥の双眸は、不機嫌の色を濃く落として伏せられたまま、地を這うような低い声で、それでも返事は返ってくる。こいつは呼びかけを無視出来ない性質の人間だが、こんな状況下だ、返事をされれば多少なりとも安堵の溜息が出る。その溜息に、ヤツの肩がピクリと揺れた気がしたが、兎に角この膠着状態をどうにかしたいばかりの俺に、そこまで気を回す余裕などない。
「とりあえず飯、食おうぜ?」
「っ!!」
その言葉を聞き終わるや否や、勢いよく立ち上がったヤツは、親の仇でも見るかのような鋭い目で俺を睨みつける。手に持っていたコップが鈍い音を立てて床に落ちる。中身は零れたが、コップは無事なようだ。よかった。
そんな場違いな事を考えていた俺を怒るかのように、アイツは半ば叫ぶように口を開いた。
「バカにしてんのかよ?!」
「は?」
「こんな簡単な料理も出来ないヤツだって!」
……被害妄想もほどほどにしてほしい。いつ俺が、そんなことを言ったのか。
驚きすぎて言葉を失う俺など気にする余裕もないのか、ヤツの口からは、今までの沈黙が嘘だったかのように言葉が溢れ出す。
「今日はっ、ホントは、お前の好きな料理で、ちゃんと祝ってやる予定、だったんだ……!」
「なのに、結局、こんな……っ」
「お前も、楽しみ、に、しててくれた、のにっ!」
「全然、上手くいかないし……こんなの、全然、違う……っ」
次第に小さくなっていく声量に反して湿り気を増していく声音。今にも泣きだしそうな表情に、俺の中に後悔が生まれる。
「俺は、」
「素直に嬉しかったんだけどな」
俺の言葉に、ヤツが弾かれたように顔を上げる。目いっぱい見開かれたその眼には、驚きと疑惑の色が滲む。
お前って、ホント。
「お前が、俺の為に考えて、俺の為に行動して、」
自信がなくて、甘え下手で、ひねくれ者で、ネガティブで、途轍もなく面倒臭いヤツなのに、
「俺の為に、自分の時間いっぱい使ってくれたこと」
真面目で、繊細で、正直で、自分に厳しくて、友人想いで、真摯で、直向で、情に深くて、
「すっげー、嬉しかった」
俺には勿体ないくらい、
「いいやつなんだよなぁ、お前」
瞬きと共に、雫がひとつ、溢れて落ちる。
思わず伸ばした指が頬を滑り落ちる涙に触れる前に、再び下向く顔。その反動で零れた雫は、今度は眼鏡のレンズに落ちて弾ける。肩を小刻みに震わせて、眼鏡を涙塗れにして、小さく嗚咽を洩らすその存在の儚さに、思わず胸が熱くなる。
テーブルの上、疾うに時を刻むことを止めてしまった砂時計を、くるり、と180°回転させる。再び落ち始めた若草色から手を離し、涙の止め方を忘れたコイツに向かって、ほら、と両手を広げる。
「あと3分、カップ麺できるまで暇だからさ」
「っは……? 何言って、……もう、とっくに――」
涙で濡れた眼鏡を外してやり、俺はちらり、と砂時計に視線を向ける。
「――まだ落ち切ってねぇけど?」
「……、それ、お前が今ひっくり返したからじゃ」
「そうだっけ?」
釣られて視線を向けた先にある砂時計が動いているかどうか、近眼のヤツには確認しようがないのだろうが、そんなことはどうでもいい。取るに足らない瑣末なことだ。
「まぁ、とにかく暫く暇だからさ」
結局のところ、俺が言いたいのは。
「慰めさせてよ」
「……、ばか」
罵りと同時に、胸元に飛び込んできた塊を抱きとめる。
「しょうがないから、三分間だけ、構ってやる」
焦げ付いた鍋、零れた麦茶、伸びきったラーメン、素直じゃないお前。
どれをとっても最高なんて言葉、普通じゃ出て来やしないだろうけど。
――幸せって、こういうことなんだろうなぁ。
腕の中の愛しい存在を抱きしめて、俺はそんなことを考えていた。