呼ばれた声に振り向いた瞬間、見えた凶刃。
(あぁ、不味い)
思考が危機を認知しても、体の反応が遅すぎる。
一直線に左胸を目指し突進する姿は、小さな姿に遮断された。
刃渡り数10pのナイフは柔らかな鞘に納められたのと同時に、暴漢がその拳で殴り飛ばされる。
渾身の力を放出した少女の体が崩れ、桃色の髪が蛍光灯の光を反射させ輝いた。
「姫菜!」
「お、怪我は……有りませんか……?」
倒れた体を抱える。
痛みを堪えて、緑の目が私を見つめた。
「無い。君のお陰だ」
「……そ……ですか、よか……た」
左胸に刺さる凶器を中心に滲み出した赤が染め上げていく。
刺さったままならまだ助かっただろうが、スキルの反動のせいで重傷は致命傷に至ってしまった様だ。
助からない。
命が漏れ出すのを止める術は無く、彼女の目は光沢を失っていく。
「……ありがとう、姫菜」
それだけ呟けば自分を見つめたままの彼女は微笑みを浮かべ、そして果てた。
そっと亡骸を横たえる。
白衣に血が染みている事にその時初めて気が付いた。
「あ〜ぁ」
不意に後ろから聞こえた声に視線を向ける。
見下ろす長身の青年は、薄ら笑いを浮かべていた。
「……不識」
「いきなり走り出すから驚いちゃったよ、いや本当。
飛び出したと思えば、コレだし?」
軽い調子で笑う、模様の描かれた手に握られた獲物に視線が向いた。
「あ、コレ?いやだって、追撃されたら不味いでしょ?
だから、正当防衛って奴?」
ヒラヒラとナイフを翳す先、振り返れば、先程の暴漢の首が抉られて、赤い海に沈んでいた。
おそらく姫菜が崩れる瞬間、吹き飛ばされた時に後方から投擲したのだろう。
彼はその能力にも適性を持っている、容易な事だった筈だ。
死した相手を見ながら立ち上がる私の肩が掴まれ、壁に背を強かに打ち付けられる。
痛みに呻き声が微かに漏れた。
首筋に冷たく硬質な刃が宛がわれる。
どうやら、生命の危機はまだ過ぎては居なかった様だ。
「…………何の真似だい?」
比較的穏やかに声を掛ける。
俯いた表情は窺い知れないが、刺激すべきでは無いと思う。
「……アンタ……どれだけ奪えば満足なんだよ……?」
いつもの軽口では無い、抑揚の欠けた声色。
決して激しくも煩くも無いその言葉は、逆に戦慄を覚えさせた。
「何を……」
「解ってたんだろ?
この娘は、アンタの為なら何でもするって」
少し上がった顔で視界に入る口元は、笑っていた。
「見ろよ。アンタを助ける為に、無駄に死んだ癖に……死ぬ必要なんて無かったのに、笑ってるんだぜ?」
視線だけ動かし、彼女の顔を見る。
生気の抜けた姿だったが、確かに彼女は微笑んでいた。
「滑稽だよな。ただ使い壊れただけだってのに。
本当、どうしようも無い、笑っちまう」
ククッっと、笑いながら上げられた顔。
笑っていたと、同時に底冷えする様な冷たい眼光と目が合う。
本能的に背筋を悪寒が走る。
だが、極力動揺は圧し殺した。
「本気で笑っている様には見えないが?」
「そりゃそうだろ。本気なんて無いんだから」
貼り付いた笑みを湛えなから、平然と吐き捨てる。
「あの娘は、アンタを愛する役。
何があっても、従順に従う出来の良い奴隷」
「………………」
「俺は、それでもあの娘が幸せなのは解ってた。
どれだけ全てを捧げても、報われないのも解ってた」
ナイフを握る手に力が加わり、今にも動脈を引き裂かんばかりの空気が重くのし掛かる。
「どれだけ奪えば満足なんだ、カミサマ」
遂に笑みすら消えた姿は、憎悪の様な、虚無の様な、異様に煌めく瞳だけが全てを支配していた。
「僕は神になった覚えは無い。
確かに君達を造り上げはしたが、ただの人間に過ぎないよ」
「……」
「君達はかけがえの無い存在で、僕としても失いたくは無かった」
「……ハッ……良く言う」
「事実だ」
「確かにそれは事実だな。
ただ、真実じゃ無いだけの……な」
「……君は何がしたいんだい?」
一瞬、瞳が揺れた気がした。
「ゆるせない」
「不識」
「ゆるせない、許せない!赦せない!!」
「不識、落ち着きなさい」
「アンタがあの娘を、姫菜を殺した!!
アンタが、紫月さんさえ、居なければ俺達はっ!」
見開かれた目が殺気に染まる。
緩んだ枷が溢れ出す感情を暴走させる。
「殺してやる!殺して……!!」
振り上げられたナイフが反射し、声にならない絶叫と共に下ろされた。
沈黙。
感情のままに突き刺さった狂気は、首筋の横、壁に牙を剥いた。
すっ、と冷たい汗が流れ落ちる。
荒い呼吸のまま、再び俯いてしまった彼は、まだナイフを握り締めている。
「………………」
熱気が少しずつ薄らいで、空気が静寂を取り戻していく。
「……のに……」
掠れた微かな音が、細く小さな言葉を紡ぐ。
「なのに……出来ないんだ……俺は、貴方を殺せない」
先程の重圧が消えた姿は同一人物である事を疑わせる位、鎮まり、脆弱さを思わせる。
「貴方を傷付けたら、姫菜が一番傷付くんだよ」
あの娘は貴方を愛しているから。
そんな言葉と共にナイフが壁から引き抜かれ、パラパラと壁の破片が落ちていった。
2歩、3歩。不識が下がり、僕は解放される。
「……ッ……」
「不識!?何を……!!」
再び振り上げられた刃が、彼の左手を貫通した。
赤い筋が流れ落ちる。
「笑えないよ。コレが俺の配役なんだからさ」
驚く僕に向けた彼の表情は呆れた様に笑う、いつもの軽薄そうなそれだった。
「ごめんね?って、そんな軽い事じゃ無いけど〜」
ヘラヘラと普段と変わらない態度。
落ち着きを取り戻した姿は、どこか痛々しい。
「不識、今回の件は僕にも非がある。
……済まなかった……」
「やだなぁ、俺なんかに謝んないで下さいよ〜?
あ、警備係だ。いやはや職務怠慢だねぇ?」
バタバタと数名の警備係が駆け付けた。
確かに、対応が遅すぎるな。
軽く事情を話、2つの遺体が回収される。
「不識。君は治療を受けなさい。
私は状況を纏めておこう」
「あ〜、それ、俺がやっときますよ」
横目で見れば。
いや、余計な事は書きませんから、等とへらりと笑う。
今回の彼の暴走に関しては不問にするつもりだったが、それは不識自身も公にすべきでは無いと感じたのだろう。
「何にせよ、その手では不便だろう?」
「大丈夫大丈夫!
だからさ、所長は姫菜の所に行ってあげてよ」
薄笑いで、託される願い。
それが一番の供養だから、と目が告げる。
君が行けば良いだろう?
と、そんな言葉は飲み込んだ。
「後は任せる」
「アイアイサ〜!」
ふざけながら敬礼して、不識は警備係達の方へ向かう。
どうしても不安定なそれは、結び付きの固さだけ崩れやすくて揺らぐ。
約束された繋がりでも、それが呪いと絆だとしても、確か結ぶ関連性は彼等を捕らえて離さない。
眠る少女に花を手向けた。
微かにまだ、幸福と微笑んでいる様な錯覚。
失った以上、この先は更に理想とかけ離れていくだろう。
それも一つの正解なのだろうか?
独房の薄闇に、一人の青年は居た。
知人に無理を言って入れて貰った檻。
両手には重量感のある錠。
簡素過ぎるベッドに上体だけを起こし座る。
鎖の音が、嫌に響いた。
「……ごめんな……?」
彼女はきっと怒っているだろう。
許してくれないかも知れない。
また幸せに出来なかった。
後悔に苛まされても、もう遅い。
「ごめん」
少女の亡骸が、喚起させる映像。
倒れた青年の亡骸、流れる血。
「……ごめん」
何度謝ろうが、自殺すら赦されない身だ、どれが贖罪になると言うのか?
「………………」
いつになれば、叶うだろうか?
カミサマは俺を赦さない。あの子も未だに糾弾する。
今度は彼女がまで、失った。
ささやか過ぎる願いは、叶わない。
またいつか、それでも願う。
人は願う故に生き、人であろうとするならば。
今この一瞬を生きていけるのかも知れない。
諦め無ければ、可能性が消えない限り。