井戸さんの実家には蔵がある。
その昔、いわゆる座敷牢として使われていたらしい。当然ながら、井戸さんの生まれるずっと前のこと。詳しいことはわからない。
「小さい頃は、なんとなく怖くて近付きませんでした。ただ、……」
井戸さんは、言い淀んだ。
「どうしてだか、入ってみたいとも思ってたんです。ずーっと」
その想いを、三十路に入って五年も経った、今頃かなえたのである。
先日、井戸さんはついに足を踏み入れた。
「正月に帰省したとき、本当、魔が刺した感じで。自分でもよくわかりませんでした」
蔵の中は、想像通り、カビ臭く薄暗い。
誰も手入れしていないのだ。
と。
目についたものがある。
「手。壁から、手が生えてたんです。腕の、そう、付け根あたりまで」
作り物ではない。かといって、壁に人が埋まっているわけでもないだろう。
動きはしないが、明らかに生きている人間の手だった。
「そっと近寄ったら、その手が私に気付いたみたいで。あ、というのも、腕を伸ばしてきたんです」
握手を求めるように。
井戸さんは、ほとんど迷いもせずに、その手を握った。恐怖を感じなかった理由はまるでわからない。
「冷たくはありませんでした。暖かくもなかったけど」
手は、しばらくすると、自分から井戸さんの手を離した。
井戸さんは、そのまま蔵を出た。実家の誰にも、蔵に入ったことは話さなかった。
「あの蔵……座敷牢が、いったいなにを幽閉してたのかはわかりません。ただ、何十年越しか、でようやく会えた気がします」
微笑んでいた。
「さびしかったんでしょうね」
井戸さんは、泣き笑いのような顔をして、自分の手を眺めながら言った。