クロシマと呼ばれた男は、恰幅がよく、というよりも酷く太っていた。西浜も大概太っていたが、その比ではない。講義室の机と椅子の間に肉が食い込んで、息をするのも難儀しているように見えた。
「誰?」
 隣の女、こちらも多少太めの、が首を傾げながらクロシマに尋ねる。小声のつもりだったのだろうが、ひよかにははっきり聞こえていた。疑問を持たれて当たり前とわかっていても、なにか不愉快だった。
 ひよかは何も言わない。何も言えない。言葉が見つかるはずもない。ひよかとクロシマが見つめあっていると、教授が講義室に入ってきた。
 教室は前を向き直り、何事もなかったかのように聴講に入る。頭の中では、さっきの一幕はいったいなんだったのか、それぞれがそれぞれの中で疑問に立ち向かっていた。

 ひよかは講義が終わると、一目散に教室を飛び出す。これは九十分前の出来事と関係なく、いつものこと。
 クロシマクロシマクロシマ。
 それは、つまり、どういことだろう。たまたま彼がクロシマという名前だっただけ。
 そうだとしても。

 自分の中に流れている黒々とした血は、気持ちが悪いものだった。グツグツと煮えたぎる血が、吐き気を催した。
 だから、自分の黒さを殺してしまいたいと思った。自分の黒さが黒島なんだと思った。
 黒島が全部悪い。だから、クロシマを。
 そうすれば、西浜に会いに行ける。会いに行けないのは、菜々花より自分が劣っているとしたら、黒島の存在だけ。なら、クロシマを。

 講義室からゆっくり出てきたクロシマは、女と共に歩いていく。
 菜々花が、そうなら。大丈夫。私は、大丈夫。大丈夫じゃないといけない。やってやろうじゃないの。
 ひよかは後ろをつけていった。
 ――バカみたい。
 降ってくる声には耳を貸さなかった。